うわっ!偉そう!でも、書く資格一応あるよね?
と言うわけで、大学通信教育についてリサーチ中な方や、学校問わず出願済みの方、そしてすでに入学しているがリポートが書けないと言う方へ、オススメの一冊を挙げてみます。
「えー」と思われる方の方が多いと思います。この手の定番書である、河野哲也『レポート・論文の書き方入門』(慶應義塾大学出版会)や戸田山和久『論文の教室』(NHKブックス)みたいな具体的な技術を解説するようなものはないので。
では、何で今更清水幾太郎本なのか。それは、「なぜ書けないのか」の理由は技術的問題ではない、と考えるから。しかして、その理由とは。それは「精神的なものである」と、「書くという精神の姿勢」という節(pp.5-11)を読んで気付かされたからあります。
現代において精神主義は忌み嫌われるものですので、上記の理由は鼻でお笑いでしょう。けれども、ブログに長々と文章を書けるにもかかわらず、リポートとなると「書けない」となってしまう。その差は何か、となると技術よりもやはり精神となってしまうのではないだろうか。
清水はこう書いている。
読む働きと書く働きとの間には、必要とするエネルギーの大小というだけでなく、もっと質的な相違があると言わねばならない。そこには、精神の姿勢の相違がある。即ち、読むという働きがまだ受動的であるのに反して、書くという働きは完全に能動的である。(中略)私たちは、多量の精神的エネルギーを放出しなければ、また、精神の戦闘的な姿勢がなければ、小さな文章でもかくことは出来ないのである。(p.6)
つまり、「読む」ことと「書く」こととは相反することである。
ところで、先に述べたブログをはじめとして、現代書かれているテキスト量は膨大であり、「書く」ということは、清水がこの本を著した時代とは異なり、別にインテリの特権でも何でもない、単なる日常的な行為となっている。だが、その「書く」ことは「読む」ことを必ずしも伴っていない。そのため、昨今は「書く」ことと「読む」こととが大きく乖離してしまっているのではないのか、と思うのである。そのことは、インターネット上における文脈を無視したコメントの氾濫(あるニュース記事や論説などをいくつかのフレーズだけ見て掲示板やSNSなどで的外れなコメントをするだとか、Twitterのいわゆる「糞リプ」など)がいい例であろう。これらは、「書く」ことと「読む」ことという相反する精神的姿勢からくる精神的格闘を避け、脊髄反射という安易に流れている、と言えよう。となると、現代人はテキスト量とは相反して本当に「書いて」いるのだろうか……。
清水は続けてこう書いている。
私たちの場合は、書くという働きを行った後に、漸く読むという働きが完了することが多いようである。(同)
「リポートが書けない=テキストを読めていない・理解していない」では実はなく、「書く」ことは「読む」途上なのである。だからこそ、リポートを書けない人にこうアドバイスをしたい。「とりあえず手を動かせ」と。「読む」というパッシブな行いと、「書く」というアクティブな行いとの格闘を恐れずにやってみるべきだ。その結果の産物であるリポートが不合格であっても何も悪いことはない。担当される先生方はそれを読んで添削するのが仕事なのだから。むしろ、「何がわかっていないのか」を理解するためにとにかくリポートを書いてみるべきなのである。
けれども、闇雲に書くのも抵抗があるだろう。なので、まずこの清水本をさらっと読んでみて心構えをすることをまずオススメしたい。その上で配布される『自立学習の手引き』や河野本・戸田山本、木下是雄『理科系の作文技術』(中公新書)・『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫)などのリポート・論文作成技術書をいずれか、さらに余裕があって著者に抵抗がなければ本多勝一『日本語の作文技術』(朝日文庫)も一読されてみてはいかがだろうか。もっとも、そうした読書経験を生かすも殺すも、最終的には自分次第ですが。
以上、それを殺している奴が偉そうに書きました。支離滅裂な文章になってしまいましたが、少しでも参考になれば幸いです。
※余談
清水幾太郎を、歴史学(知識としての歴史ではなく)を齧った人でその名を知らない人はまともに勉強してないと思っていいでしょう(その理由を察することができない人もマズイですよ)。けれども、世間的には、昭和10年代から50年代まで様々なメディアで評論を行っていた売れっ子であったにもかかわらず、完全に忘れ去られた人物であります(西田幾多郎と混同されるのを割と見かける、もちろん清水のはずが西田にされてるという形で)。
そんな清水の評伝である竹内洋『メディアと知識人』が、『清水幾太郎の覇権と忘却-メディアと知識人』というタイトルとなって文庫化されます。
ところで、それと同時に『君主論』が改版されます。
どうやら佐藤優による解説という余計なものがつくようですね。
清水というメディア型評論家の走りと、現代のメディア型評論家の典型による解説が載った本が同時に出るというのが少し興味深いですね。