通信制苦学記録

大学通信教育課程の史学科でアタフタしてました

スクーリングはできる限り一杯受けるべきなんじゃないの?

(注意)この記事長いぞ!

 

私の履修方法について改めて。

 

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 各履修方法での単位数をグラフ化しました。これでスクーリング修得単位は最低限の30(ただし、通信の方は2単位余分に修得)。

 

で、通信学習に注力して思うのが、スクーリングをもっともっと受けたかった、ということ。散々通信学習をこなしてきましたが、印象深いのはやっぱりスクーリングの授業でした。

私の場合、地理的・時間的制約(昨年までの6限じゃ間に合わないし、今年からだとギリギリっぽいけど、遅延や渋滞で一発アウトな勤務地でした)や、開講科目や予備登録の壁、さらには経済的制約など、スクーリングが最低限になったのは、むしろ「受けたくても受けられな」かった結果であります。

 

ですから、在学生やこれから入学される方に言いたいのは「スクーリングをできる限り受けよう!」です。

 

以前こんな記事を書きました。

通教生アンケートに思う - 通信制苦学記録

 

この中でいわゆる「スク専」を肯定しました。それは自分自身の経験と、先ほどの記事で取り上げた古壕論文に書かれている、大学通信教育の成立の歴史的観点からです。

 

以下長い引用(注番号は省略してます。引用元は以下に示す原本で確認下さい)。

 

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=31126&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

 

 例えば,『通信教育―教育指導者講習研究集録第六回後期』においては,「通信教育で実施し得る科目に は自ら限度があって,知識が真に自己のものとなる実 験実習,人間完成に中枢的位置を占める情操の教育に 徹底を欠く憾みは,通信教育の宿命的(Fatal)な短所である」と記されている。また,文部省社会教育局(1955)『通信教育の問題点と振興策―社会通信教育研 究協議会資料』は次のように言う。「通信教育は(中 略)本質的に通信教育が面接をその主な手段とせず通 信によるものである以上,例えば教師対生徒の人間関 係の中に養われてゆく人間教育,或いは情操教育が徹 底せず,実験実習を必要とする面における指導の問 題,特に又自発性を前提とするが故に忍耐力を必要とし,面接を主とする学校教育の如く生徒の現在の理解 度の実態に即応する指導が必ずしも即時的に行われな いなどの欠陥をもつ。この事は常に学習指導の側にた つものが考慮せねばならぬ点であり,(中略)この教 育がもつ本質的欠陥を常に如何にして補うかについて 留意しなければならない。」

 こうした人間教育や情操教育の不徹底,個人学習ゆ えの学習意欲の維持の難しさ,実験実習や学習者への 即時的指導の困難などの点は,大学通信教育の「宿命的な短所」や「本質的欠陥」として,政策立案者や通 信教育アクターに認識されることになった。 大学通信教育は,一方で,教育行為と学習行為の時 間的・空間的な「へだたり」を前提とする教育・学習 である,と自らを規定することで,経済的・地域的・ 環境的・身体的といった諸制約から学習者を解放す る。だが他方で,この教育行為と学習行為の「へだた り」=非同時性を前提とするがゆえに,そこでの「教える/学ぶ」というプロセスを非人格するものではないか,という疑惑を招喚することになる。

 この疑惑は上記の大学通信教育の構造的問題の他 に,「働きながら学ぶ」というその学習者像とも密接に 関係している。昭和25年度教育指導者講習会編(1951)『通信教育―教育指導者講習研究集録第五回』には,次のような学習者像が提出されている。「時間的経済的 に恵まれない青年が生活の場としての家庭又は職場に あって日夜激務に従事しあらゆる困難とたゝかいなが ら唯通信による指導を本旨として教師の指導や感化を 直接にうけることもなく,学友との相互の協力もな く,自主的自発的学習活動に専念するのである。」こうした学習者の具体像とは,1利用し得る時間が僅か である,2学習と勤務との両立への努力に精神を消耗 する,3疲労しやすい,4学習意欲がにぶり易い,5 周囲に学習を妨げるような誘惑の機会が多い,6職業上の知識を豊富に有している,7基礎的一般的な知識 に欠けている,8固定した世界観,人生観を持っている,9絶えず激励してくれる人がいない,10学習上の設備の不備,人格的感化がないため学習能率が上がらない,というものである。つまりは,「働きながら学ぶ」者とは,諸制約ゆえに学習が困難な者であるとして,政策立案者や通信教育アクターに捕捉されていた と言えるだろう。

 こうして「宿命的な短所」「本質的欠陥」という構造的問題と,諸制約ゆえに学習が困難な者という学習者像が相俟って社会的な疑惑を招喚するのである。 すなわち,大学通信教育は教育行為と学習行為との「へだたり」=非同時性を前提とする教育・学習形態 であるがゆえに,「宿命的な短所」「本質的欠陥」を自ら抱え込むことになる。まさにこの「宿命的な短所」「本質的欠陥」が,換言すれば,教育者と学習者との 人格的接触あるいは関係性の希薄さ,さらには「教え る/学ぶ」というプロセスの非人格化と見なされる点 が,「大学通信教育は本物の教育ではないのではないか」というその教育・学習行為の真正性や正当性を疑うまなざしを招喚するのである。例えば,通信教育では,「その人の独自性というものが消去されてしまう。 教室内での人間の関係性は,知識の機械的伝達と個々 の学習および達成に,取って代わられてしまうのである」との批判は,その典型であり現在にも見られる。

 では,こうした大学通信教育に内在する「宿命的な短所」「本質的欠陥」を改善し,その教育・学習行為の正当性や真正性に関する疑惑を解消するための有効な方策とは,一体何であろうか。そこで,政策立案者 や通信教育アクターがその有効な方策として導入した のが,「スクーリング」(面接授業・指導)であったわけである。この意味で,通信教育は「謦咳に接する」 状況を伴わないために,「何かしら真正でないものと いう疑惑を避けられず,年何回かのスクーリングで疑惑解消に努めている」と述べる今井康雄の指摘は的確 である。

 つまり,大学通信教育に内在する「宿命的な短所」「本質的欠陥」を改善し,その教育・学習行為の正当 性や真正性に対する疑惑を解消するためにこそ,「ス クーリング」は存在したのである。こうして大学通信教育は,その内部に教育・学習の自由性とそれに相反 する「スクーリング」という 二 つの要素を抱え込む ことになったのである。

 古壕典洋「制度創設期における大学通信教育の性質についての考察――『スクーリング』という存在を手がかりに――」『東京大学大学院教育学研究科紀要』 51,2011,pp.140-141.

 

要するに、スクーリングは「通信学習だけでは効果は上がらないのでは?」という疑念に対して作られた制度であると。

この制度設立期から存在する問題が現在解決できたかどうかはともかく、通信教育に対するイメージの悪さは、むしろ通信学習に由来するものであることが窺える。

ところが、大学通信教育の経験者は、逆に通信学習による単位修得の難しさを経験している。それが故に相対的に楽なスクーリングでの単位修得を軽視・蔑視してしまい、「俺は苦労して通信学習で単位を取ったのだから、お前らもそうしろ」という主張になってしまいがちであり、昨年度末から今年度当初にかけて行われた、つまり今年の通信教育部アンケートでも、その手の「ご注進」がありました。

 

個人的には大学通信教育の理念である「教育機会均等化」を貫徹するのならば、スクーリングは任意参加にすべきではないかとすら思う(大学通信教育の元祖であるロンドン大がそうであるように)し、スクーリング必修という「本質的欠陥」は、地方在住者や社会人、子育て世代などの教育を受ける権利を、むしろ損ねているとすら思ったりもする。けれども、だからといって「スクーリング単位が大半での卒業は許せない」とはまったく思わないのです。

 

考え方を変えれば、大学通信教育課程は「受講方法として通信学習がある」だけであり、学習者自身の都合に従って履修方法をデザインできるというものである。だから、スクーリング必修単位さえ満たせれば、どのように履修しようと自由なはずなのである。

だから、都合がつくのならばスクーリングをガンガン受けてもいいし、それが難しいのならば通信学習を中心に進める、ただそれだけのことではないのかと。

また、史学特有の理由としては、史料の著作権や所有権や軍事機密(例えば中国軍作成の地図が該当)による制約が掛かっているものや、物質史料などを利用した講義ができたりするのもスクーリングの大きな利点である。はっきり言って、そのような授業や演習を数多く受けた人の方が、通信学習ばかりの人よりも歴史学の本質により迫れているのではないかと思うし、地理的制約を受けている人に対して、そのような教育をどのように施すのかが史学科通信教育課程の課題なのではと思ったりします(一方で東京近郊では見られない物質史料や遺跡、美術品その他史料にアクセスしやすいという利点はあります)。

 

くどくどと書いてきましたが、とにかく言いたいことは「自由にやっていきましょう」

どう単位を修得したって、行き着く先は一緒だし、変に陰口に振り回されて卒業できなくなったり、学びたいことを目一杯学べなかった方が大きな損失なのだから。